続縄文時代とは


北海道の歴史
北海道の歴史を時代毎に考察し、主な出来事を史実ごとに事実と共に個人の感想を織り交ぜながら紹介します。
◇縄文時代~の北海道

日本の中で最も豊かな自然を有する北海道。そんな北海道の縄文時代の歴史をみなさんはご存知でしょうか。あまり教科書などにも載っていないようなので、結構マニアックな歴史かもしれません。日本全体としての縄文時代の歴史は知っているが、北海道に限定されると全く分からないという人が多いと思われます。私も最近までは、全然知りませんでした。
実は、北海道は日本のほかの地方とは、少し違う歴史・文化を歩んでいるのです。この度は、北海道が縄文時代でどのような歴史を歩んできたのかを少しずつ紹介していきたいと思います。

縄文時代の終焉と続縄文時代の始まり
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縄文時代の終焉と続縄文時代の始まり

縄文時代の終わりは、北九州に大陸からの渡来人が大挙流入して、弥生文化が始まったことにより終焉を迎えました。年数で言うと、約2千300年前ごろからであり、九州北部から始まった水稲耕作を伴う弥生文化は、徐々に本州へ広がっていきました。弥生文化が伝わって、取り入れられ始める時期が地域によって異なるため、縄文時代の終わりの時期は、地域の差が大きくありました。

 その後、弥生文化は本州全土に広まり、本州は弥生時代を迎えます。しかし、北海道だけは、縄文時代の終わりを迎えません。北海道では、稲作を取り入れず、縄文文化の特色が色濃く受け継がれ、自然の中から食べ物や道具を得ることを中心とした生活が続けられていきました。ただし、このころ本州で広まっていた青銅や鉄だけは、北海道内にも影響を及ぼしています。このような縄文文化の生活が続けられた時代は、「続縄文時代」と呼ばれています。
 時期で言うと、本州が弥生文化を取り入れて弥生時代に移った時代から、約600年後に北海道では、続縄文時代が始まりました。縄文文化が始まって以降、北海道では南や北の方角から海を越えてやってきた人がしだいに文化の交差点となり、縄文文化の特色をそのまま受け継ぐ続縄文文化が1万年以上にわたって続いたのです。

 なぜ北海道は、弥生文化を取り入れて弥生時代に移らなかったかというと、北海道の厳しい寒さが原因だと考えられています。寒さが厳しいため、水田がうまくいかず、稲作文化が広まらなかったようです。そのうえ北海道では、稲作で暮らしていかなくても、稲作より確実に収穫できるサケ漁が盛んだったので、北海道の人々はサケ漁で生計を立てていました。その年々の気候に左右されず、安定して冬越しの食べ物を手に入れることができていたのです。

 そして、より多くの食糧を求め続縄文時代の人々は、海沿いの暮らしからだんだんと内陸の川沿いでの暮らしへと移っていきました。その証拠に、北海道の江別市にある江別太遺跡では、サケやスズキの骨が見つかっています。
続縄文時代の北海道では、北海道の中でも土器などの文化内容は異なっていました。地域ごとに分けると、「オホーツク海洋地域」、「釧路等道東地域」、「石狩平野の道央地域」、「函館方面の道南地域」の4つの地域に大きく分かれます。

 そして、「石狩平野の道央地域」、「函館方面の道南地域」の文化は、青森の亀ヶ岡文化の影響を強く受けた「恵山文化」。「釧路等道東地域」の文化は、中国の漢の大陸文化の影響を受けた「江別文化」。「オホーツク海洋地域」の文化では、このあとに述べる「オホーツク文化」でもある「北大文化」。というように、それぞれの地域で文化の名称もあり、特に地方色が強い時代でした。
このように北海道では、地方によって文化は異なっていましたが、本州のように自然を開発して都市を建設する文明の道ではなく、一貫して自然との共生を大切にする「循環と再生」の道を選択してきました。


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