旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文時代、アイヌ文化時代と本州とは異なる時代を歩んできた北海道。明治時代では、北海道も本州とともに時代の始まりを迎えます。
ただ、アイヌ文化時代=江戸時代から始まった和人とのわだかまりは、明治時代を迎えても解消できていないようです。
大正時代の初めのころ、北海道のアイヌの小作農民たちは、たびたび冷災害にあって苦しい生活を送っていました。そして、高額な小作料に不満を持ちながらも、その改善を口にすることはできませんでした。一方で、次第に全国各地で発生する農民運動に呼応するように、北海道内でも徐々に「小作争議」が発生する時代を迎えつつありました。
小作争議とは、農民運動と同じようなもので地主から農地を借りて耕作し、小作料を払っていながら耕作権を法によって認められていなかった小作農民が、地主に対して小作料の減免やさまざまな条件改善を求めて起こした争議のことを言います。
小作争議は、当初は凶作や自然災害による一時的な農村不況を原因として発生していましたが、日露戦争後には小作農民にとって負担となった米穀検査に対する反発から激化するようになりました。
そして、1910年代から1920年代にかけては、「大正デモクラシー」という言葉に表されるように社会に自由な雰囲気が広がり始め、アイヌの人たちの活動も活発に行われるようになりました。政府は、大正13年(1924年)に小作争議を対処するため「小作調停法」を施行したりもしましたが、収まることはありませんでした。ですが、小作農民の耕作権を公認する「小作法」は、地主を有力な支持の基盤としている帝国議会ではなかなか成立させてもらえず、戦後の農地改革によって寄生地主制が解体されるまで、小作争議の背景にある根本的な矛盾は解決されないままでした。
また小作争議以外でも、アイヌの人たちの反発がありました。アイヌ民族差別に対する抗議、アイヌ民族が「昔ながら」の暮らしをしているという偏見とそれを理解しようとしないことへの批判、アイヌ民族が自立して生きる道を探ることへの呼びかけなどの活動が、アイヌの人たち自身によって行われ、民族的な組織を結成するという動きもありました。その後、そのような活動が実り、町や村の議会議員選挙で当選する人も出てくるようになりました。