旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文時代、アイヌ文化時代と本州とは異なる時代を歩んできた北海道。明治時代では、北海道も本州とともに時代の始まりを迎えます。
ただ、アイヌ文化時代=江戸時代から始まった和人とのわだかまりは、明治時代を迎えても解消できていないようです。
明治19年(1886年)には、明治15年(1882年)に設置された札幌、函館、根室の3県1局制が廃止され、北海道庁が設置されました。北海道庁は、土地の資源と民間への引き渡し、開拓をさらに進め、アイヌの人たちの住む場所を狭めていきました。
そして明治時代の半ばごろから、北海道への和人の移住が急激に増加していき、政府の拓殖制作もあって、開拓が著しく進展しました。
こうした政策の中でアイヌの人たちは、生活の途を失って困窮がいっそう厳しくなると、明治32年(1899年)に「北海道旧土人保護法」が制定されました。「北海道旧土人保護法」という法律は、名の通り貧困にあえぐアイヌの人たちに対する保護を名目として作られたもので、農業のための土地を下げ渡し、日本語や和人風の習慣による教育を行うことで、アイヌ民族を和人に同化するためのものでした。
しかし、実際にはアイヌの財産を収奪し、文化帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠に過ぎませんでした。具体的には、次のようなことが実行に移されました。
1. アイヌの土地の没収
2. 収入源である漁業・狩猟の禁止
3. アイヌ固有の習慣風習の禁止
4. 日本語使用の義務
5. 日本風氏名への改名による戸籍への編入
土地を与えられたアイヌの人たちの中には、農業経営に成功した人もいましたが数は少なく、はじめから農業に向いていない土地を与えられたり、農地にすることを失敗して土地を取り上げられたりした人が多かったのです。アイヌ民族へ下げ渡された土地は、とりわけ大きな資本を持つ者などに与えられた土地と比べると、はるかに狭いものでした。この後でも、土地の下げ渡しでは、明らかな民族差別が行われました。
また、「北海道旧土人保護法」による教育の重要な特徴は、和人児童との別学を原則とし、教育内容にも不当な格差を設けていたことです。学校の設置にあたっては、子供たちに教育を受けさせようと、土地や資金を寄付するアイヌの人たちもいたそうです。しかし、学校では、アイヌ語をはじめ独自の文化や習慣は否定され、日本語や和人風の生活の仕方を覚えなければなりませんでした。
このように、明治時代では「北海道旧土人保護法」も制定されるようになり、表向きではアイヌ民族を受け入れているようにも見えますが、民族差別は続いていき、アイヌの人たちの自由はますます奪われていってしましました。そして明治時代以降でも、歴史的背景などが原因となり、アイヌ民族に対しての差別は続けられてしまいます。
参考ページ
アイヌ人の歴史:『http://www.k3.dion.ne.jp/~kamishin/Ainubunka.htm』
ウィキペディア:
『http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E6%97%A7%E5%9C%9F%E4%BA%BA%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E6%B3%95』