旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文時代、アイヌ文化時代と本州とは異なる時代を歩んできた北海道。明治時代では、北海道も本州とともに時代の始まりを迎えます。
ただ、アイヌ文化時代=江戸時代から始まった和人とのわだかまりは、明治時代を迎えても解消できていないようです。
明治が始まるとともに開始された「北海道の開拓」。出来事をたどってみると、まず出てくるのは「開拓使」ではないでしょうか。
「北海道の開拓」が開始されてからすぐに設置されたのが「開拓使」ですから、とても印象に残りますよね。
でも、もっと深く「北海道の開拓」の歴史を見ていくと、「北海道の開拓」を語るには欠かせないことが出てくるんです。
それは、「屯田兵」です。
「屯田兵」ってなんだか分かりますか?
聞いたことのある名称ですが、意外とわかりませんよね。
そこで、このたびは「屯田兵」について少し詳しく説明していきたいと思います。
まず、「屯田兵」という制度が制定されたのは、明治7年(1874年)のことです。
「北海道の開拓」を目的とする「開拓使」が明治2年に設置され、良い感じに開拓が始まったばかりなのに、また新たな制度を立てるのかと思うかもしれませんが、その背景にはロシアの南下政策の圧力が強まったことが挙げられます。
もともと、ロシアの進出をさせてはなるものかということで、「開拓使」が置かれ開拓が進められてきたのですが、北海道は広いので、当時はまだ道南の一部しか開拓が行えていませんでした。
そこで、あの西郷隆盛が警鐘を鳴らして強く推し進めたのが「屯田兵」です。
「屯田兵」には、「開拓」の目的と同時に北方の「警備」という意味合いも込められ、未開拓の地へ「屯田兵」を送ることでロシアの進出をより迅速に防ごうとしたのです。
人数を必要とする「屯田兵」には、大政奉還で職を失った武士たちが抜擢され、全国から大勢集められました。その数、200人以上と言われています。
また、「北海道の開拓」を手伝うとなれば、当然家族を連れて北海道へ入地しなければならなくなり、「屯田兵」に選ばれた人には家と北海道の未開拓の土地が与えられました。
さらには、移動費や家具、農具、米など手厚い待遇もあったそうです。
土地や家具、食料なども提供されて豊かに見える「屯田兵」ですが、実は軍隊でもありました。
「屯田兵」としての日々の開拓作業に加え、日清戦争や日露戦争に関与するなど、日々の生活は規律正しく厳しいものだったそうです。
でも「屯田兵」たちのおかげで、「北海道の開拓」はスムーズに進められ、「屯田兵」中心の屯田兵村も誕生しました。
「北海道の開拓」の貴重な労力となった「屯田兵制」は、1904年までの約30年間の歴史でしたが、大きな功績の爪痕は今でも北海道に残されています。
「屯田兵」のお話は、まだまだ深いお話がたくさんあるので、興味のある方はぜひ調べてみてください。