旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文時代、アイヌ文化時代と本州とは異なる時代を歩んできた北海道。明治時代では、北海道も本州とともに時代の始まりを迎えます。
ただ、アイヌ文化時代=江戸時代から始まった和人とのわだかまりは、明治時代を迎えても解消できていないようです。
明治の始まりと共に開始された「北海道の開拓」は、明治の終わりごろを迎えてもなお進められていきました。
ですが、やがて明治の「北海道の開拓」は終わりを迎えることとなります。
1900年ごろになると、北海道は「開拓使」や「屯田兵」のおかげでそれなりに開拓もすすむようになり、本州からの移民も増え続けました。
しかし、1904年に「屯田兵」が廃止される頃になると、「北海道の開拓」は徐々に困難を増してきました。
なぜ、困難になってきたのかと言うと、主な理由は資源の減少です。
移民で北海道の人口が増えていったのはいいのですが、開拓によって資源が奪われ続け、ついに資源が足りなくなってしまったのです。天然資源が豊富な北海道でも過度な開拓には耐えることができませんでした。
北海道に暮らす人々は、主に稲作や農業で生計を立てているため、水田や畑が多く造られました。
しかし、水田はまだいいのですが、丘陵地にある畑などでは土壌の浸食や養分を奪われることによって荒地が増え始めるようになってしまいました。
作物に肥料を与えておけば、このようなことにはならないのですが、このときの日本にはまだそのような知識はなく、土の栄養だけを頼りにしていました。
明治時代の北海道の開発は、いわゆる資源略奪型の開発だったのです。
その結果、北海道の栄養が豊富な大地でも地力が低下し続け、不毛の地とかしていきました。
さらに、森林の伐採や原野の開墾などの開拓事業が進むようになると、河川の氾濫なども増えるようになってしまいました。
その後も、自然からのしっぺ返しが急激に増えるようになり、大正9年を境に北海道への移民は減少の一歩をたどっていきます。
そして、明治33年に樹立されていた「北海道10年計画」も日露戦争で空中分解してしまいました。
明治43年からは、開拓の予算を当初の3倍にして巨額の費用を投入しましたが、それは実ることはなく開拓は困難を極め、これを期に「北海道の開拓」は、見直されることとなったのです。
その後は、明治の「北海道の開拓」は終わりを継げ、昭和25年には北海道開発法が制定されて国が北海道開発を請け負うようになりました。
今だから当たり前のようにある北海道ですが、いろんな人の血の滲むような苦労があったということを考えると少し感慨深いですね。