歴史ある「五稜郭」


北海道の歴史
北海道の歴史を時代毎に考察し、主な出来事を史実ごとに事実と共に個人の感想を織り交ぜながら紹介します。
◇明治時代の北海道

旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文時代、アイヌ文化時代と本州とは異なる時代を歩んできた北海道。明治時代では、北海道も本州とともに時代の始まりを迎えます。
 ただ、アイヌ文化時代=江戸時代から始まった和人とのわだかまりは、明治時代を迎えても解消できていないようです。

歴史ある「五稜郭」
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歴史ある「五稜郭」

徳川幕府の命を受けた蘭学者武田斐三郎が設計を手掛け、1864(元治元)年に完成した、国内初の西洋式城郭の五稜郭は、函館山から約6km離れた函館市のほぼ中央、浅いすり鉢の底のように低くなっている所にあります。
国の特別史跡に指定されたこの場所は、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台にもなりました。

星形の城郭は、防御側の死角が少ないなどの利点があり、ヨーロッパを中心に普及していました。
幕府は開港に伴う防備強化を図るため、五稜郭築造に着手しましたが、建設途中で財政難に陥り、計画変更を余儀なくされてしまいます。
人馬が出てくるのが見えないようにするための、菱形状をした土塁「半月堡(はんげつほ)」は、5つの予定が、一の橋を渡った右手にある1カ所だけとなり、備前御影石を用いる予定の石垣は、函館山から切り出した安山岩を使用しています。
約7年を費やして出来上がった五稜郭には、箱館山の麓にあった奉行所が移転。
1867(慶応4)年の大政奉還により、明治新政府が業務を引き継ぎ、名称は箱館裁判所・箱館府となりますが、江戸開城に納得しない榎本らが、蝦夷共和国の樹立を目指して北海道に上陸し、五稜郭の占拠を成し遂げます。しかし新政府軍の反撃に屈し、1869(明治2)年5月に五稜郭を明け渡すことになります。
箱館戦争後、大半の建物が解体されてしまいましたが、白壁の「兵糧庫」は難を逃れ、箱館奉行所は、2010(平成22)年6月に復元公開されています。

五稜郭公園として一般開放されるようになった1914(大正3)年には、当時の函館毎日新聞社が発刊1万号を記念し、10年かけて約1万本のサクラの木を寄贈、植樹しています。
春に約1600本のソメイヨシノなどが咲き誇るサクラの名所とし、人気の高い観光地、地元市民にとっての憩いの場となっていますが、一の橋を渡った右手の土手にあるサクラが、この公園で特に見栄えがいいようです。
桜の開花はソメイヨシノが標本木です。函館市では五稜郭公園の桜が観測場所となっているのを、みなさんはご存知でしたか?
冬には堀がライトアップされるなどの工夫がこなされ、四季折々に美しい景色が眺める公園となっています。

五稜郭公園を眺望する、107mの高さを持つ五稜郭タワーからは、星形をした五稜郭を、しっかり見ることができます。
2層構造の展望台2階では、ペリー来航に始まり、箱館戦争、明治時代に行われていた堀での氷の切り出しといった、時代の場面を造形したジオラマ 16体が並べられています。
また、壁面を覆い尽くすグラフィックでは、五稜郭の歴史が詳しく解説されています。
市内を一望できる360度の大パノラマが自慢の五稜郭タワー。春はピンク、夏は緑、秋は赤黄、冬は白色と姿を変える五稜郭の星。四季折々の楽しみがあります。


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