旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文時代、アイヌ文化時代と本州とは異なる時代を歩んできた北海道。明治時代では、北海道も本州とともに時代の始まりを迎えます。
ただ、アイヌ文化時代=江戸時代から始まった和人とのわだかまりは、明治時代を迎えても解消できていないようです。
高倉健さん主演の映画「網走番外地」シリーズの舞台にもなり、今では人気の観光スポットとしても有名な「網走刑務所」ですが、この網走刑務所が建てられたのは明治23年のことで、北海道の道路開削工事のため多くの受刑者が送り込まれていました。
今回は「網走刑務所」について少しお話ししていきます。
「網走刑務所」は、明治23年に建てられ、明治36年に「網走監獄」に改名されましたが、大正11年にまた「網走刑務所」へと改名されています。
犯罪傾向の進んだ者(再犯者・暴力団構成員)や、執行刑期10年以下の受刑者の短期処遇を目的とする刑事施設で、日本最北端にあり、日本一過酷で脱獄が難しいとされた刑務所です。
現在使われているのは昭和59年から平成22年までに建て替えられた建物で、明治以来使われてきた建物は、天都山のふもとに移築保存され、「博物館網走監獄」として観光スポットとなっています。
明治維新の後、蝦夷地は北海道となり、北海道開拓使によって本格的に開拓がはじまります。しかし、厳しい寒さと流氷にはばまれ、夏の間漁場が開かれるだけで開拓から取り残されていました。アイヌ以外の日本人が初めて冬を越したのは、明治12~3年頃のことだと言われています。
なぜそんな場所に監獄が建てられたのでしょうね?不思議に思うかもしれませんが、もちろん理由があります。
それは、開拓のために民間の人を雇えば莫大な賃金がかかるからです。だけど、囚人を雇えば賃金は半分で済むし、作業で死んでも悲しむ者人もいないし、囚人の数が減れば監獄費の節約にもなり、まさに一挙両得だったと考えられ、困難な作業には囚人を使うべきだとされていたからなんです。
開国したばかりの日本は、他の列強諸国に早く追いつき追い越そうと必死に富国強兵政策をとっていました。経済的に大きく発展するには、未開の地であった北海道の開拓がどうしても必要だったのです。そのためにはまず、人や物を運ぶための道路を作らなければならなかったのですが、国の財政にそんな余裕もなく、そこで考え出されたのが増える一方の囚人を労働力として使うことでした。
開拓のために北海道各地に監獄を作る計画はどんどん進められ北海道に囚人が集められました。網走刑務所は「網走囚徒外役所」と呼ばれ、中央道路開削工事のため明治23年(1890年)には1200人もの囚人が送り込まれました。
中央道路開削工事は、たった1年間で網走から北見峠までの約160kmが開通していて、過酷な労働条件による怪我や栄養失調が原因で200人以上の人がなくなっています。
だけど、明治27年に「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」と国会で追及されるまでの社会問題となり廃止されました。が、民間人や外国人などによる「タコ部屋労働」は大正や、昭和になっても続いていたのです。
網走の発展に大きく関わっていた網走刑務所ですが、こういった背景があるのだと思うと何か悲しいものがありますね^^;