旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文時代、アイヌ文化時代と本州とは異なる時代を歩んできた北海道。明治時代では、北海道も本州とともに時代の始まりを迎えます。
ただ、アイヌ文化時代=江戸時代から始まった和人とのわだかまりは、明治時代を迎えても解消できていないようです。
「札幌農学校」と「ウィリアム・スミス・クラーク」と「北海道の歴史」。どれもまったくつながりのないように思うかもしれませんが、実はつながりがあるのです。と言うのも、札幌農学校の初代教頭がウィリアム・スミス・クラークで、北海道の発展にもかかわっているからなんですよ!
では、どういったかかわりだったのでしょうか?ということで今回は、北海道の発展にもかかわった札幌農学校とウィリアム・スミス・クラークについてご紹介しようと思います。
まず、「札幌農学校(さっぽろのうがっこう)」は、明治の初期に北海道の札幌に置かれた教育機関で、現在の北海道大学の前身です。
明治5年(1872年)に北海道の開発に従事する人材育成のため、東京に開拓史仮学校が開設されたのがはじまりで、明治8年(1875年)に札幌に移転し札幌学校と改称され、さらに翌年に札幌農学校と改名されています。
札幌だけでなく北海道の開拓の歴史と密接に繋がっていて、札幌の発展に伴って規模も拡大し、東北帝国大学農科大学、北海道帝国大学、そして現在の北海道大学へと発展しました。
この学校の目的は、北海道に近代技術を導入し開拓の人材を養成することで、農学や土木工学、測量、英文などが教えられていました。
そんな札幌農学校に教頭として招かれたのが、日本ではクラーク博士として知られているウィリアム・スミス・クラークでした。この当時、教頭という立場の人が実質的な責任者で、クラーク博士が校内の全てを取り仕切っていました。
クラーク博士はアメリカの教育者で、専門の植物学だけでなく自然科学一般を英語で教えていました。農学校の基礎を作り、キリスト教精神を教え、生徒の中にはキリスト教徒も生まれました。
直接科学とキリスト教的道徳教育の指導をし、北海道開拓だけでなくその後の日本の発展に大きな影響を与えた人物をたくさん輩出しています。
クラーク博士が札幌に滞在していたのはわずか8ヶ月でしたが、死の間際には「札幌で過ごした8ヶ月間こそ私の人生で最も輝かしい時だった」と言い残したと伝えられているくらい札幌での生活が思い出深いものだったようです。
北海道の開発に従事する人材育成のために札幌農学校ができ、クラーク博士が教頭として招かれ、日本の発展に大きな影響を与えた人物を輩出することがなかったら、もしかしたら、今の北海道はなかったのかもしれませんね。
そう考えると、なんの関係のないように見えて実は関係があったりして、そういったつながりを知っていくのもおもしろいものがありますね^^