日本の中で最も豊かな自然を有する北海道。そんな北海道の縄文時代の歴史をみなさんはご存知でしょうか。あまり教科書などにも載っていないようなので、結構マニアックな歴史かもしれません。日本全体としての縄文時代の歴史は知っているが、北海道に限定されると全く分からないという人が多いと思われます。私も最近までは、全然知りませんでした。
実は、北海道は日本のほかの地方とは、少し違う歴史・文化を歩んでいるのです。この度は、北海道が縄文時代でどのような歴史を歩んできたのかを少しずつ紹介していきたいと思います。
この度は、続縄文時代に北海道のオホーツク海岸沿いで栄えた「オホーツク文化」のあとに登場した、「トビニタイ文化」について詳しく紹介していきたいと思います。
名前を聞くと、なんだか海外の文化?と思ってしまいますが、ちゃんとした日本の文化です。
本州の人々が平安時代を過ごしている時代は、北海道の人々は独自の文化である擦文時代を過ごしていました。
この頃の北海道は、本州の文化の影響を少なからず受けていて、本州に近い文化を取り入れるようになり始めました。
そして、北海道のオホーツク海岸沿いでも、オホーツク文化が終わりを迎え、北海道の大部分とともに擦文文化を擁する擦文時代を迎えると思われていました。
しかし、オホーツク海岸沿いではさらなる独自の文化が続いていきます。
その独自の文化が「トビニタイ文化」です。
「トビニタイ文化」は、オホーツク文化が北海道で栄えていた擦文文化の影響を強く受けるようになってでき始めた文化で、オホーツク文化と擦文文化が混ざったかたちの文化と言えます。
「オホーツク文化との比較」
住居:海岸沿いの居住(オホーツク)→内陸部の居住(トビニタイ)
鉄器の入手ルート:大陸産(オホーツク)→本州産(トビニタイ)
擦文人との溝:少しの擦れ違い(オホーツク)→より鮮明になる(トビニタイ)
これらの中でも一番の大きな違いは、海岸沿いから内陸部に住居を移したことです。
これにより、生活の中で土器を用いることが多くなっていったようです。
擦文人との仲の悪さも注目すべき点で、この仲の悪さが今後の時代の流れにも影響してきます。
なぜ「トビニタイ文化」という名前のかというと、遺跡が根室振興局管内の羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見されたからだそうです。
ちなみに、その遺跡も「トビニタイ遺跡」と言います。
一方で、オホーツク文化を取り入れていた地方が、すべて「トビニタイ文化」に移行したわけではなく、道北地方はオホーツク文化が擦文文化に吸収されて擦文時代に移りました。
オホーツク文化、「トビニタイ文化」ともにまだまだ研究中の文化ですが、オホーツク文化以上に謎に包まれているのが「トビニタイ文化」のようです。
まだまだ未解明の「トビニタイ文化」ですが、明らかになると続縄文時代からアイヌ文化時代までのつながりも明らかになってくると思うので、解明されるのを気長に待ちたいものです。